【対談】雨宮処凛さん × 宮崎礼二さん心に響いた若者達の言葉「戦後100年」
レポート
2015年11月8日(日) 20:00
2015.11.08 非核・平和憲法フェスティバルin浦安
特別記念対談 若者と未来と憲法について
約100人が集まった浦安市美浜公民館。経済論が専門の宮崎礼二さんが若者たちの現状にくわしい雨宮処凛さんに聞く形で対談が進みました。
この夏、国会前や路上での若者達の抗議行動をどう見たか?
若者たちの「憲法守れ」「平和を守れ」という声。「憲法」「立憲主義」という言葉にあらたな命が吹き込まれたのだろう。ずっと活動をしてきたこの会場の人達が見れば、涙を流すのではないかと思われる熱い夏だった。でもそれは、若者の危機感が増したという意味でもある。
なぜ若者が声を上げはじめたのか。
彼らは思春期に東日本大震災を経験した。政府が「原発は安全です」という後ろで、原発が爆発するという現状を見た世代が徐々に動き出した。311後をどう生きるか、政治に無関心ではいられないという若者が現れた。311以前の若者の行動は「承認欲求」がほとんどだった。それが震災後がれきの山を見て、自分の承認欲求を棚上げしはじめた。けれども、実は承認欲求が無くなった訳ではない。承認欲求はとても厄介な欲求で、それがヘイトスピーチやネトウヨなどの出現につながっているのだろう。
雨宮さんも右翼団体で活動していた経験があると…?
私は自分が承認されな過ぎて、右翼に入った経験がある。ヘイトスピーチ、ネトウヨ第一世代と言ってもいいかも。「がんばれば報われる。いい大学に行けば大丈夫」と言われたのに、バブルがはじけて、全部うそになってしまった。93年に高校を卒業して、大学を目指したが2浪。いよいよ働かなくてはという時には、正社員にもなれず、最低賃金の生活から抜け出せなくなった。なぜ?という理由を知りたかったのかもしれない。「左翼」の集会に行ったら、専門用語だらけで何がなんだかわからなかった。反対に「右翼」の集会に行ったらわかりやすい言葉ばかり、「すべて、戦後アメリカが悪い」って。地方から出てきて、孤独…だった。帰属するところが「国家」しかない中卒、高卒の若者が多く集まっていた。そこの若者たちは、かつて国家に必要とされた「特攻隊」にはまりあこがれた。右翼で活動していた時は、人生のどん底だった。そんな中、右翼の活動で憲法についてディベートする機会があった。その時読んだ「憲法の前文」を読んで感動してしまった。
安保法案が成立してこれからどうなる?
かつては、平和を訴え「憲法守れ」という運動は金持ちセレブの運動だと言われた。今は格差が広がり続けている。奨学金の返済の肩代わりに防衛庁でインターンさせればという政治家がいたり。実際に中東での戦場は出稼ぎ労働者が集まり稼げる場所だった。「希望は戦争」という言葉が話題になったが、貧困の先に戦争があることがリアルな事実。
私たちはどんな行動をしていけばよい?
安保法案を採決する国会を傍聴し続けた。議員の投票を見ていて「数」の力を感じた。次の選挙では「数」を取ることを目指さなければいけない。また、日本は一生政治と無関係でも生きていける、そういう珍しい国。無関係と思っている人達にどう伝えていくか、それはとても気を遣うところ。正しいことを大きい声で言っても、うざいと思われるだけ。若者の団体シールズが「あと30年後に戦後100年を自分の子ども達と祝う」とスピーチをした。かっこよかった。それから私も「戦後100年」という言葉を使っている。心に響く言葉を丁寧につむいでいきたい。
雨宮処凛さん おもな著作本
宮崎礼二さん 著作本